miyamotoSion’s Obsessions

宮本紫苑がTwitter ( @miyamotoSion ) に書ききれないことを残しておく場所。

Twitterについての私見

なんだか世間では、Twitterが大流行りのようで。
ここ最近のニュースでは、ビジネスへの活用にとどまらず、新卒採用をTwitterでエントリーさせる企業が現れたり、鳩山総理が始めたり、その影響か政治家のユーザーが増えてきてたり。
挙句、Twitterで叩かれて逆切れして自民党を離党して民主党に入党してTwitterに「入党なう。」とかつぶやくDQNな政治家まで現れる始末。



同類のサービスは、実はたくさんあって、「ミニブログ」というはずなんですが。
ツイッター」が、完全に一般名詞になってしまったようですね。
それくらい勢いのあるこのサービス。アカウントを作るくらいのことをしといてもいいんじゃないかと思わなくもないですが、なぜか自分の中に拒否反応があります。
いままでこの拒否反応の正体が分からなかったのですが、今日はその正体がちらっと見えた気がしたので、わたしなりの見解なんかを。






「つぶやく」という行為って、すごく手軽で、推敲もほとんど必要ないし、誰かに話したいという欲求を即座に満たしてくれる、今の時代にマッチした面白いサービスだと思います。
だと思いますが。



文脈がないよね。



誰かと「会話」してれば、話がつながって、相手が期待通りの返事をしてくれて、それにお約束の返事をして、話がそれて、またつながります。
つまり、話の途中に出てくるひとつひとつの言葉は、そこに至るまでの「文脈」があってこその言葉です。
そして、日常会話で「文脈」を無視した発言をするひと、「文脈」を読めないひとは、「宇宙人」扱いを受けます。
実は、わたしも一時期、会社で宇宙人扱いを受けたことがあります。



文脈を読めないということは、空気が読めないこと。そして先読みができないこと。
話の基点として「つぶやき」があるのは一向に構わないと思うのですが、はたして、Twitterで「文脈を読むちから」が身に付くかどうか。
疑問です。



もうひとつ。
発言が文脈をともなわない、ということは、その一言で誤解を招く恐れがある、ということでもあります。



例えば、「ぼくはうなぎだ。」



ファミレス店員とのやりとりの中であれば、うな重か何かを注文したんだろうと分かりますが。
いきなり誰かがこれをつぶやいたとしたら?



というわけで、文脈を伴わない発言は、誤解を招く可能性が高いんじゃないかと思うわけです。
言葉で民衆を導く政治家たちが、これを不用意に使うのは、いつか身を滅ぼすような気がします。



以上、大学で受講した講義と、自己啓発の本「頭がいいとは、文脈力である。(齋藤孝・著)」を基に考えてみた、わたしのTwitterへの拒絶反応に関する考察でした。



いや、Twitterミニブログを否定してるんじゃないですよ。念のため。