miyamotoSion’s Obsessions

宮本紫苑がTwitter ( @miyamotoSion ) に書ききれないことを残しておく場所。

「なんとなく」とは

2週間近くご無沙汰してしまってすいません。精神的にまいってたんですが、なんとか持ち直しました。



さて、蒼平さんのブログで彼なりの考え方が記事として挙がってたんですが、ちょっとわたしと意見の違うところがあるので、わたしなりの考え方を書いてみます。
反論っぽくなってしまいましたが、許しておくんなまし。



>理路整然としていることが良いという風潮がある
実際には、表現があいまいでも意味しているところが分かればいいんです。それで分かり合えるのが「あうんの呼吸」というやつですね。
しかし、人同士の関係が表面的なものだけになり、価値観が多様化し、ちょっとした認識の行き違いやコミュニケーションのミスが徹底的に叩かれる今の時代、あうんの呼吸というものが成立しにくくなっています。
だから、そういうミスがないように、回りくどくてもあいまいな部分を無くさないといけない。そういうことが根底にあるような気がします。



>言葉とはラベルにすぎない
言葉とは意思を乗せる媒体のひとつにすぎない、と思います。
いつも3時におやつを食べるこどもが「今ちょうど3時です」と言った場合、その瞬間が3時ジャストであるかどうかはどうでもよいのです。そこには、おやつまだかなぁという意思が乗っています。
言葉は文脈、場の流れと作用しあってさまざまな意味をもちます。



>「なんとなく」は気持ちがわるい
日本人特有の感覚として、わびさびというものがあります。「なんとなく」という考え方に非常に近い、あいまいさを楽しむ感覚ではないでしょうか。
今だから思います。「きっちりする」ことの何と難しいことか。だからこそ、わたしは会社で怒られつづけるのです。鬱。



>「悲しい」と誰かが言ったとして
「その気持ちわかるよ」と言ってはいけない。きっとそう言った本人は、同情の言葉がほしいわけでも、本当にわかってほしいわけでもない。ただ聞いてほしかっただけだろうから。その辛い気持ちを吐き出したかっただけだろうから。願わくば、少しだけでも共感してもらえれば、というつもりだと思います。



今まで「なんとなく」という感覚で生きてきたわたしにとって、今の「きっちり」を求められる環境、社会、立場は苦行に近いものがあります。けど、これを使い分けられるようにならないと現代社会ではやっていけないのかもしれません。